今月1日(日)に放映された、
NHKスペシャル「日本と朝鮮半島 第5回 日韓基本条約」を
観ていたら、5年前に映画「パッチギ」を観たときに感じた、
「映画は良くできているんだけど...」といったモヤモヤした
違和感のような何とも言えなかった感情の理由が解った。
この映画は1968年の京都が舞台になっている。
そして、「キューポラのある街」と同じように
この時代では北朝鮮帰国事業がまだバラ色の未来を
もたらすものとして描かれていた。
ただ史実においてこの年は、
65年に日韓基本条約が締結されてからわずか3年であり、
完全に同時代における物語である。
この時代、在日コリアン社会の内部だけでなく、
日本社会においても、
敗戦直後から朝鮮戦争にかけてほど暴力的ではなかったが、
親韓国派と親北朝鮮派の対立と確執がまだ続いていた。
この民団系と総連系と日本社会の3つどもえの確執が
作品のテーマである「イムジン河」発売中止問題を解く鍵であるのに、
「パッチギ」では北朝鮮系と日本人の交流だけしか
描かれていなかった。
これが、この5年間この映画に対して感じていた
微妙な違和感の原因だったのだなと、
今回のNHKスペシャルを観ながら理解できた。
また、この事が、映画の完成度自体は高いのだけれども、
どこかキレイ事の公式見解を観ているような気分の
原因でもあったのだろう。
ただし、ここで注意すべきなのは、
映画の作り手側のイデオロギーとこの事とは
直接は関係ないということである。
この事は映画表現の根底にある普遍性ともリンクする。
作り手が右寄り、左寄り、ノンポリのどれであっても、
政治的にデリケートな問題や事柄をテーマとして
作品を作るには、
作り手の主張うんぬん以前に、基礎知識として
ほんの少し触れるだけでもいいから
わざわざ台詞で出演者に説明させる必要まではいらないが、
作品のベースの部分にそこはかとなく流れていなければ
ならなかったのではないのだろうか?
同様にこの事は、
前述したNHKの番組にも同じことが言える。
その1つの例として、
前回の「第4回 解放と分断 在日コリアンの戦後」において、
朝連(後の総連)の初代リーダーだった
金天海(キム チョンヘ)については述べられていたが、
逆に、民団の初代団長の朴烈(パク ヨル)の名前は
どこにも出てこなかった。
どちらかといえば彼の方が、20世紀前半~半ばにかけての
日韓関係史において重要な人物であるにもかかわらずである。
そこがNHK内左派の弱点なのだろう。
この事は私だけでなく、他にも指摘している人がいるかも
しれない。
ただ、これは制作スタッフの勉強不足でこうなったという
可能性も否定はできない。
そういえば、「パッチギ」の時代設定と同じ1968年に
制作された、
フォークル主演、大島渚監督のそのものズバリ
「帰ってきたヨッパライ」では、
韓国軍のアメリカ属国としてのベトナム派兵も
重要なテーマの一つとなっていた。
映画としての完成度では「パッチギ」のほうが高いとは思う。
ただ、私はどうも矛盾しているようだが、
この映画にも横溢している、初期大島渚映画特有の
若松孝二ともちょっと違う
荒っぽいイデオロギッシュさ剥き出しの作風が
心の中にこびり付いて離れない。
完成度とかイデオロギーがどうとか偉そうなことを言っているが、
本当は単純にこの手の映画が好きなのだろう。
2010年8月8日日曜日
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